Paul, a servant of Jesus Christ, called to be an apostle, separated unto the gospel of God, (The Book of Romans 1:1)
普通 separate from ~ 「~から別たれる」の形で使うのが一般的。それなのにKJV(英語欽定訳聖書)は separate unto ~ 「~へと別たれる」の形を用いてきます。果たしてこれはどういう事なのでしょう?
あらゆる宗教は「悪から離れる」ことを教えます。煩悩から、悪癖から、悪行から離れなさいと。しかし人間が罪の中に囚われている以上、そこから離れることはできません。ある程度、努力による行状の改善は可能ですが、人間の根本を変えることは神の御業によるしかありません。
リンゴの木はリンゴの実を結びます。神の前に人間は罪人です。罪を犯すから罪人になるのではありません。罪人だから罪を犯すのです。しかしイエス・キリストは、この罪の性質の問題を解決して下さるのです。
ところで神の視点から見れば、「悪から出る事=善に入る事」になりますが、人間の側では悪と善の間にニュートラルな部分があると思い込むのです。イスラエルがエジプトから出て、すぐ約束の地カナンに入れば良いものを、40年間も荒野を彷徨うような…。キリスト者はこの誤った考えを、思いの一新によって変える必要があります。
禁煙で口が寂しいようならガムを噛めばいい、といった発想で。ニュートラルは危険です。ですからキリスト者として相応しくない時間、場所、金銭、行動から抜け出るだけでは十分ではありません。それらに代わる良きもので満たさねばならないのです。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ人への手紙4章28節)
旧約聖書は「盗んではいけない」と言います。新約聖書は「与えなさい」と教えます。誰でも盗みを禁じますが、それは当たり前のこと。しかし与えることは自由、それをしなくても罪に問われません。人はどうしてもその中間の留まってしまう。盗むという行動を与えるという行動に変える。それが当然で喜びだと思える。そんな心の変化こそ恵みの発想によるものであり、また牧会上、具体的指導において反映されるものだと思います。
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