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びわこバプテスト聖書教会

滋賀県大津市の教会です。聖書の学びを中心にした集まりを持っています。

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  posted by at 11:16:42 │EDIT
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新しい礼拝と奉仕

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 16:02:19 │EDIT
 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、(ローマ人への手紙1章9節)

 霊をもって仕えているありますが、パウロは誰の霊について述べているのでしょうか?新改訳聖書では単に霊としか訳されていません。ある人は「もちろん聖霊のことでしょう。」と言います。ここで英語欽定訳聖書(King James Version)をチェックしてみましょう。

 For God is my witness, whom I serve with my spirit in the gospel of his Son, (The Book of Romans 1:9)

 ここでパウロは my spirit と言っています。ですからこれは聖霊ではなく、パウロ自身の霊です。キリストを信じた人はその霊が新しくされ生かされます。すなわち霊として本来の機能を回復し、聖霊との交わり(コミュニケーション)が出来るようになるのです。

 旧約時代の人々にはまだ信仰による新生体験がなかったので、神は人々に霊によって仕える事を要求しませんでした。その代わり、精一杯、心によって仕えるよう命令されたのです。

 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。(申命記10章12節~13節)

 心を尽くして主に拠り頼め。(箴言3章5節)

 あるクリスチャンたちは新生しているにもかかわらず、それでもまだ一生懸命、心を尽くして神に仕えようとし、自らの力で頑張っています。真面目で神に対して熱心ではあるのですが、霊によって仕えることに関しては理解が不足しているようです。旧約的、律法的、宗教的と言えるでしょう。

 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ人への手紙10章2節)

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネによる福音書4章23節~24節)

 新約的、恵みによる礼拝とは霊によって仕えることです。あなたの霊的奉仕は聖霊の承認と証しを得ているでしょうか?


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召命感がもたらす高き志し

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 17:08:18 │EDIT
 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。(ローマ人への手紙1章6節)

 神があなたを召される理由があります。
それは ①必要があるから ②能力があるから ③機会があるから です。

 また、神の奉仕をするためには聖くなければなりません。イエス・キリストはあなたを聖くする事が出来ます。私はこれまでに多くの説教者がこう言うのを聞きました。「私たちは罪赦された罪人です」と。???…ということは、結局のところ罪人なんだ。しかし聖書はクリスチャンを罪人とは言いません。「あなたがたは聖徒である」と。

 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。(ローマ人への手紙1章7節)

  「馬鹿者!」と「馬鹿な事を言っている」は同じではありません。「嘘つき!」と「嘘を言っている」や「能無し!」と「それが出来ない」も違います。前者は人格に触れ、後者は行為を扱うからです。行為の評価は最終判断ではないけれど、人格評価は決定的です。それをするのは神のみ。人が誰かにレッテルを貼って見下し、チャンスを奪おうとする時点で、神が最高議会において「裁く者」に判決を下すでしょう。

 兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイによる福音書5章22節)

 罪人が罪を犯すのと、聖徒が罪を犯すのとでは意味が違う。クリスチャンは罪を恥じてその振る舞いを改めるべきであり、自分を憂いて悲観に暮れるだけであってはいけません!「自分は罪人なのよ」を言い訳にして罪に負け続けるのは、召命感が希薄だからです。神に愛されている実感に乏しいのです。さあ、聖書の言葉によって思いを一新しませんか?

イエスマン VS アーメンマン

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 16:35:46 │EDIT
 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(ローマ人への手紙1章5節)

 「信仰の従順」は、この手紙の最初と最後(ローマ人への手紙16章26節)を飾る言葉です。

 イエスマンは自分の意見を持たぬ人、仰るとおりですを連呼して目上の人にご機嫌取り。でもアーメンマンは信仰の人、信念を持ってぶれない忠義の人です。聖書にあって信仰を働かせる言動一致の精神を「信仰の従順」というのです。

 アーメンとは「まことに」「真実である」「心から同意する」という意味です。

神の御子、実証す!

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 13:08:51 │EDIT
 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ人への手紙1章4節)

 キリストのもう一つの面である神性について見る事にしましょう。ここでは、死者の中から復活=大能の力=神の子という論理です。神は死にません。人間は死にます。ではキリストはどうでしょう?彼は死ぬことが出来て甦ることも出来た唯一のお方です。要するに神であるお方が、ある目的の為に自らの意思で人間となられたのです。何のために?彼を信じる人々を罪とその刑罰から救うためです。

 イエスの十字架の前で人々が提案した「神の子としての証明」は次のとおりです。

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(ルカによる福音書23章35節)

 すなわち危機からの回避です。しかし聖い御霊の提案は、自ら死の懐中に飛び込んで勝利するという真向勝負!死という絶望の淵からの見事な帰還でありました。何とダイナミック、人間の理解を超越した発想でしょうか!

 キリスト教の救いはイエスの教えに土台を置きません。イエスの復活の事実が土台なのです。キリスト教の勉強があなたを救うというのではありません。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ人への手紙10章9節)

 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。(コリント人への手紙第一15章14節)

 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(コリント人への手紙第一15章17節)

 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(コリント人への手紙第一15章19節)

 主イエス・キリストの御名は誉むべきかな!

キリストのルーツ

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 23:34:58 │EDIT
 御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ…(ローマ人への手紙1章3節)

 Concerning his Son Jesus Christ our Lord, which was made of the seed of David according to the flesh; (The Book of Romans 1:3)

 イエスはダビデの子孫ではありません。ダビデの子孫とされたのです。確かにヨセフはダビデの血を引いていましたが、イエスの誕生においてヨセフは全く関係していません。そう、ヨセフはイエスにとって義理の父というべき人でした。むしろイエスの肉体についてはマリヤの胎との関係がありました。マリヤの先祖もダビデであったので、ダビデの子孫とされたのです。

 キリストがダビデの子孫として生まれる事は旧約聖書の預言によって明らかですが、ヨセフの系図(マタイによる福音書1章)よりもマリヤの系図(ルカによる福音書3章)が神によって用いられました。何故でしょう?

 まず、神はダビデの系図を呪われました。

 主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」(エレミヤ書22章30節)

 また、創世記3章15節の「女の子孫」、ガラテヤ人への手紙4章4節の「女から生まれた者」という言葉は、キリストがマリヤから出た事と説明しています。

 イエスは聖霊によってマリヤの胎に入られました。これがキリスト教で極めて重要な教理、処女降誕なのです。キリストは人の子であり、また神の子です。

So Goooooooood News !

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 22:14:05 │EDIT
 この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。(ローマ人への手紙1章2節~3節)

 「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちを先に聞きたい?」なんてアメリカ人がする会話をテレビで見たことありませんか?
 キリスト教では良いニュースの事を福音(ゴスペル)といい、新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書で始まります。ところで福音書を読んで「これのいったい何が福音なの?」と首を傾げる日本人も少なくないはず。

 ところで、今から聖書を読もうとするあなた。「旧約と新約があるんだけど、どちらから?」

 ユダヤ人なら誰でも旧約聖書から始めます。というより彼らの殆ど多くは新約聖書を読みません。なぜなら彼らはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒だから。ところが異邦人(ユダヤ人以外の人)はユダヤ教の知識がなくても、いきなり新約聖書から入ってクリスチャンになる事だって出来てしまう。これも聖書で言われる恵みの一つです。

 「律法の話と恵みの話があるんだけど、どちらから聞きたい?」…いずれにせよどちらの話も聞くことになるでしょうね。

 もし誰かが神の律法基準に到達出来れば、死と滅びから解放されます。ところが神の義にふさわしいと認められた者は誰一人としてなかったのです。そしてこれまで誰もが死によって支配されてきました。これが律法を主題にした旧約聖書のストーリーです。
 
 さて、ここに人となられたイエスが神から遣わされて、キリスト(メシヤ・救世主)、すなわち人類の代表となりました。イエスは33年間の生涯を神と人との前におくり、全ての試み(テスト)を経て、律法をことごとく成就(合格)されたのです。それだけでなく過去・現在・未来における全人類の罪の支払いをする為に、身代わりとして十字架で死なれました。さらには御自分の義、すなわちイエスの成した全ての徳を信じる者に下さったのです。イエスは罪の為に死に飲み込まれたままでは終わらず、全ての償いを終えられて甦り、今も生きておられます!そしてこの地上で仕事を完遂さられた後、もとおられた天に帰って行かれました。これがキリストを主題にした福音書のストーリーです。

 この歴史的事実を受け入れ、自分自身と深く関連付けて信じる時、あなたは救われます。すなわち魂において神と共に永遠に長らえるのです。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネによる福音書11章25節~26節)

 これはちょっとした良い話なんてものではありません。全人類に対して公布されるべき新しい契約の福音なのです。「何かええ話ありまっか?」-勿論ありまっせ!

ニュートラルからギヤに入れる

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 17:40:01 │EDIT
 Paul, a servant of Jesus Christ, called to be an apostle, separated unto the gospel of God, (The Book of Romans 1:1)

 普通 separate from ~ 「~から別たれる」の形で使うのが一般的。それなのにKJV(英語欽定訳聖書)は separate unto ~ 「~へと別たれる」の形を用いてきます。果たしてこれはどういう事なのでしょう?

 あらゆる宗教は「悪から離れる」ことを教えます。煩悩から、悪癖から、悪行から離れなさいと。しかし人間が罪の中に囚われている以上、そこから離れることはできません。ある程度、努力による行状の改善は可能ですが、人間の根本を変えることは神の御業によるしかありません。

 リンゴの木はリンゴの実を結びます。神の前に人間は罪人です。罪を犯すから罪人になるのではありません。罪人だから罪を犯すのです。しかしイエス・キリストは、この罪の性質の問題を解決して下さるのです。

 ところで神の視点から見れば、「悪から出る事=善に入る事」になりますが、人間の側では悪と善の間にニュートラルな部分があると思い込むのです。イスラエルがエジプトから出て、すぐ約束の地カナンに入れば良いものを、40年間も荒野を彷徨うような…。キリスト者はこの誤った考えを、思いの一新によって変える必要があります。

 禁煙で口が寂しいようならガムを噛めばいい、といった発想で。ニュートラルは危険です。ですからキリスト者として相応しくない時間、場所、金銭、行動から抜け出るだけでは十分ではありません。それらに代わる良きもので満たさねばならないのです。

 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ人への手紙4章28節)

 旧約聖書は「盗んではいけない」と言います。新約聖書は「与えなさい」と教えます。誰でも盗みを禁じますが、それは当たり前のこと。しかし与えることは自由、それをしなくても罪に問われません。人はどうしてもその中間の留まってしまう。盗むという行動を与えるという行動に変える。それが当然で喜びだと思える。そんな心の変化こそ恵みの発想によるものであり、また牧会上、具体的指導において反映されるものだと思います。

主座し、僕立つ!

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 22:42:52 │EDIT

 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、(ローマ人への手紙1章1節)

 「教会の主ではなく、キリストの僕である。」パウロの自己認識は明確でした。成功して高慢になったり、失敗して自己卑下したりせず、自分を評価する暇があるなら働けよと。私を裁く方はただ主お一人。他人も自分も自身を裁くことは出来ないのだと。

 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(コリント人への手紙第二6章8節)

 教会の主はキリストだと説教者は語ります。しかしある教会には二つの座が設けられているようです。一つは建前の座、すなわち霊的という言葉だけで、空想上のものでしかない椅子はキリストに。もう一つは本音の座、すなわち実質的、物理的権力の椅子は教職者が占める。そうあってはなりません。椅子は一つ!主キリストが座し、僕パウロが立って働くのです。


偽りなき愛国心

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 23:05:35 │EDIT
 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネによる福音書1章47節)

 イエスは遠く離れた場所から、特別ないちじくの木(the fig tree)の下にナタナエルを見ました。ナタナエルの見たものは、葉は茂っていても実を結ばない、奇妙ないちじくの木だったのかも知れません。

 「ナタナエルよ。お前もその木を見たのか?あれはイスラエルの現状だよ。偽りの言ばかりで、行が伴わない政治家や宗教家の詭弁で満ちている。ところが君は違う。君は真実にこの国を憂いているのだろう。
どこに大義の指導者がいるか?エルサレムに失望した君は、今更ナザレなんかにどうして期待できるものかと言うのだろう。しかし私は君を知っている。君こそ真のイスラエル人だ。そして君は私をどう見るのだ?」

 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。(ヨハネによる福音書1章48節)

 我が国を憂い、諫言をもって仕える真の愛国者は果たしてどれ程いるのでしょうか?この時ナタナエルはイエスに国家のビジョンを見たのです。

脱!こんな程度クリスチャン

  posted by びわこバプテスト聖書教会 at 22:46:22 │EDIT

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ人への手紙5章3節)

 キリスト教会でよく耳にする、「私たちは罪赦された罪人です」という言い方。だとすればキリスト者は未だ罪人なわけです。これはおかしい。聖書は罪赦された者を「新約の聖徒」と呼んでいます。

 「自分はまだ罪人だから仕方が無い」と、罪に対して無抵抗な人は自分に対する意識が間違っています。「私は聖徒なのだから」と意識する事によって、キリスト者のふさわしい歩みが始まります。

 失敗しても、罪を犯す事があっても、聖徒として成長を期待しましょう。 

プロフィール
HN:
びわこバプテスト聖書教会
性別:
非公開
自己紹介:
聖書が記録する6000年間の歴史から、人生に必要な知恵を学んでいます。
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