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神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、(ローマ人への手紙1章1節)
「教会の主ではなく、キリストの僕である。」パウロの自己認識は明確でした。成功して高慢になったり、失敗して自己卑下したりせず、自分を評価する暇があるなら働けよと。私を裁く方はただ主お一人。他人も自分も自身を裁くことは出来ないのだと。
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(コリント人への手紙第二6章8節)
教会の主はキリストだと説教者は語ります。しかしある教会には二つの座が設けられているようです。一つは建前の座、すなわち霊的という言葉だけで、空想上のものでしかない椅子はキリストに。もう一つは本音の座、すなわち実質的、物理的権力の椅子は教職者が占める。そうあってはなりません。椅子は一つ!主キリストが座し、僕パウロが立って働くのです。
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ人への手紙5章3節)
キリスト教会でよく耳にする、「私たちは罪赦された罪人です」という言い方。だとすればキリスト者は未だ罪人なわけです。これはおかしい。聖書は罪赦された者を「新約の聖徒」と呼んでいます。
「自分はまだ罪人だから仕方が無い」と、罪に対して無抵抗な人は自分に対する意識が間違っています。「私は聖徒なのだから」と意識する事によって、キリスト者のふさわしい歩みが始まります。
失敗しても、罪を犯す事があっても、聖徒として成長を期待しましょう。